名古屋における茶道具買取りのポイント

茶道具の世界は、詳しくない人にとっては難しいです。茶道具の由来などを聞いても、なぜこれに価値があるのか、もしくは価値がないのか、さっぱり理解できず、独特の価値観に戸惑ってしまうことになります。この記事では、茶道に詳しくない方を対象に、茶道の歴史と茶道具の歴史についてなるだけ平易に解説をし、その背景にある価値観について説明します。それを踏まえた上で、名古屋における買取業者の選び方について説明をします。

名古屋と茶道

茶道具 名古屋,買取

名古屋は歴史があり、昔から豊かな都市でした。徳川御三家の一つである尾張藩が設置されていたこともあり、茶道の盛んな土地でした。そのため名古屋は茶道具が多くある土地だと言えます。このことからも、遺産整理や財産処分などで、茶道具を処分したりする機会が比較的多いと言えます。
茶道について詳しい人が茶道具を処分する場合はあまり問題がないのですが、問題は茶道に詳しくない人の場合です。なぜなら茶道具は奥が深くて価値観が独特であり、茶道や茶道具についての知識のない人が扱うには難しい分野だからです。
ここでは茶道と茶道具の歴史について、なるだけ平易に説明をしてみます。

茶道の歴史

茶道具 名古屋,買取

び茶の成立

日本にお茶が伝来したのは古く、平安時代に空海くうかい最澄さいちょうが中国から持ち帰ったのが最初だと言われます。しかし、その頃お茶は薬の一種だとみなされており、今の漢方薬のような扱いを受けていました。日本でのお茶の栽培を始めたのは日本に禅を伝えた栄西だと言われます。ここでも、お茶はまだ薬のような扱いでした。
漢方薬の一種であったお茶が、社交の一種類である茶会というものに発展していったのは、室町時代になります。しかし室町時代のお茶会は、現在の我々がイメージするようなものとは違うものでした。当時の茶会は、上流階級の娯楽で、中国の美術工芸品を飾り立てた座敷で、お茶の種類を当てる闘茶という博打をしていました。酒も出ていたようで、一種の宴会のようなもので、お茶(闘茶)は宴会の座興であったと言えます。
しかしこのような華美で軽薄な茶会に対する反省は当時からあり、足利義政の茶道の師匠でもある村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、社会の亭主と客の精神的な交流を追求するという、侘び茶の原点が生まれました。
この侘び茶を完成させたのが千利休せんのりきゅうです。元々商人であった千利休の作った茶道は武士階級にも広がっていき、古田織部や高山右近などと呼ばれる弟子たちを輩出しました。

三千家の家元制度の確立

江戸時代初期においては、茶道はまだ大名や豪商の趣味に止まっていました。千利休は豪商でしたし、古田織部や高山右近は領主クラスの武士になります。
江戸時代中期に入り、社会が安定し経済的にも成長すると、上流階級の嗜みであった茶道は、下級武士や町人階級へと広がっていきました。それとともに、室町時代のような華美で軽薄な遊びに戻ってしまう事を憂いた千利休の子孫たちにより、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が生まれました。家元制度という人材システムや、稽古の方法としての七事式を導入するなどにより、趣味や美意識といった個人のアートであった茶道を、勉強と訓練によって習得できる稽古事へと変革することで、裾野が増えた茶道人口を吸収することが可能になりました。

財閥と上流階級の時代

明治維新後、日本の伝統的な美術は価値のないものとみなされ、茶道人口は減り、茶道具なども海外に流出してしまいました。しかし明治中期より、それを見直す動きが出てきました。その時に名物の茶道具を買い戻すなどをした立役者が、当時の財閥になります。例えば、利休七哲の一人である織田有楽斎の茶室である「如庵」は、明治6年に売却の対象となり、有志たちがその後保存していましたが、明治41年には維持運営が困難となりました。三井財閥は如庵を買い上げ、東京の三井本店に移しました。
この頃、制度としての茶道も、新しい時代に対応するべく変わっていきました。1872年の博覧会では、外国人のために椅子に座って行う作法を考案しましたし、女学校での教育の一環として茶道を取り入れていくようになりました。

戦後における近代化と一般化

戦後になり、茶道は学校のクラブなどへの導入を働きかけ、裾野を広げていきます。また各地の神社や寺院で献茶や供茶を行い、海外への普及にも取り込むようになりました。また社団法人茶道裏千家淡交会を結成し、家元を財団法人化するなど、経営スタイルを近代的に組織化するということも行われました。

茶道具の歴史

茶道具 名古屋,買取

茶道の歴史を一通り見ましたので、次に茶道具に注目してその歴史を見てみましょう。

茶道具の成立

最初に茶道具が注目されたのは、室町時代の闘茶の時代となります。この頃に部屋に飾られていた華美な唐物の茶碗などは、現在でも大名物として珍重されています。

利休の名物と骨董の誕生

また利休の時代に、華美さや豪華さのない茶道具にも価値を見出すようになっていきました。
茶碗が国一つの価値を持つと言われた利休の時代の名物というのは、大名や豪商だけが所有することのできる非常に高価な物で、庶民が手に取れるものではありません。しかし侘び茶の精神は、元々が室町時代の華美さへのアンチテーゼとして生まれてきたものですので、利休の時代の名物がその前の時代の唐物と同じような高価なものになるのと、また新たな茶道具に価値を見出していくようになります。利休の時代の名物は江戸時代初期にリスト化されて特徴が記載されていたのですが、その特徴の記載が新たに茶道具に価値を見出すためのマニュアルとして使われるようになりました。このようにして、江戸時代中期から町人階級に骨董品収集という趣味が生まれ、茶道具が取り扱われるようになりました。

名物は財閥所有から美術館へ

明治時代には、利休時代の名物は、三井などの財閥が持つようになり、それらは最終的には美術館に所蔵されるようになりました。しかし江戸時代中期からの茶道具は骨董品として価値を持ち続けました。財閥に体現されるように茶道が上流階級の嗜みとして認知されるに従って、新たなブルジョア階級にも茶道と茶道具が求められるようになりました。これは特に第一次世界大戦の頃の好景気のころに盛り上がりました。

茶道具の裾野の拡がり

第二次世界大戦中はさすがに下火になりましたが、戦後経済が発展するにつれて、さらに茶道具に需要が増し、今まで民芸品として取り扱われていたような伊万里焼なども、骨董として流通するようになっていきました。

名古屋の茶道具の動向と買取り

茶道具 名古屋,買取

町人階級出身の千利休が侘び茶を確立した時代、町人階級の経済力の向上に伴い、家元制度を完成させ骨董品収集という趣味のできた江戸中期、財閥の上流階級文化を参考にしながら、新興商工業階級が自らの趣味や師弟の教育に茶道を導入して行った戦前、戦後の経済発展を踏まえて新たに茶道の裾野を広げた戦後。どの時代においても、茶道具は新たな都市階級の勃興によって形態を少しずつ変えてきたものと言えます。どの時代においても、都市発展と商工業階級の発展の中心を担ってきた名古屋においては、どの時代の茶道具も存在しうるということになります。
そのため名古屋において茶道具を購入または売却するという時は、茶道の歴史の全体像を踏まえた知識と視野が必要になります。
名古屋において茶道具の買い取り業者を選ぶときは、取り扱い点数が多く、豊富な実績を持つ買取業者を選ぶのが良いでしょう。